何でクリスチャン?


僕のお父さんは牧師なので、僕は小さい頃から教会に行っていました。
でもけっして好きで行っていたわけではありませんでした。
日曜日、みんなが遊んでいる時に一人だけ遊べないし、
「お前、教会に行っているのかよ。」といじめられたからです。

 中学になって教会の人とついしてしまった約束によって嫌だった
教会のキャンプに行く羽目になってしまいました。直前までいやだ
なぁと思っていたキャンプも行ってみると、同い年の人とかいてけっこう楽しめました。
そこで聖書の事について少し学びました。  ヨハネ15:13
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」
人というのはキリストで、友というのは僕たちの事だと言っていました。
イエス様が僕たちのために、十字架にかかったんだ、ということを言ってました。
でもその時僕にはそれ以上のことはわかりませんでした。
 キャンプから帰ってきて普段の生活の中で、僕は聖書を開くこともなかったし、
部活があったので教会に行くこともありませんでした。
だからキャンプで言っていたイエス様のことなんて、思い出すことはありませんでした。

 僕の中学生活はひどくむなしいものでした。
やることやることに矛盾を感じていたし、無理だと思うこともたくさんあった。
だからいろんな事に反抗することで自分を確かめていたのです。
いつも強がっていたし、変わらない何かを求めていた。
一番頼れるはずの親はあいづちを打つだけで、話そうとしてくれない。
本当は辛いのに、本当は苦しいのに、この思いをどこへ向ければいいのだろう。
僕は何を信じて、何を求めていけばいいのだろう。
たばこもお酒も、まんびきも、けんかも、心をむなしくさせるだけだった。
僕はなんて無力なんだろう。
僕がいなくなったとして、誰かが僕のために泣いてくれるだろうか。
 自分がいるのかさえもわからなかった。
吐き気がして、息をすることさえもままならなかった。
周りがゆれているようだった。・・・もう死にたい。・・・もう楽になりたいんだ。
 僕は手首を切った。楽になれるはずなのに、押し寄せてきたのは痛さと恐さだった。
声にならないほどの痛み、このまま一人になってしまうのだろうか、という恐さ。
僕はその時「生きたい」と思ったんだ。

そのすぐ後の記憶はないけれど、僕は横になっていたのを覚えている。
頭の中に教会のキャンプの時の歌が浮かんできた。
「愛する友のために命を捨てる、これほど大きな愛があるだろうか」
イエス・キリストの十字架について思い出した。
僕は自分自身の苦しみのために死のうとした。
けれどイエスが死んでくださったのは、そんな僕のためだった。
どんなに苦しかっただろう。どんなに孤独だっただろうか。
彼は僕の身勝手さや、悲しみのために死なれた。
聖書で言う僕の罪のためだ。
「人がその友のために命を捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」

僕はイエスのことを知らなかったのに、イエスは僕を“友”と呼んだ。
そして僕がイエスのことを忘れてしまった時でもイエスは僕を愛していてくれた。
僕も同じように人を、イエスを愛せるだろうか。
イエスの様になりたい。イエスのことをもっと知りたい。
 全てがむなしいと思っていた中で、たった一つ、
自分自身を意味ある者としてくれる、それがイエスの十字架だと思った。
僕は、イエスが僕のために十字架にかかったということ、
そしてイエスが僕のことを愛したということを信じている。
だから苦しんでいる人たち、また、苦しんでいることに気づいていない人たちに、
この喜びを伝えたいと思った。 
「道のないところに道を 死から命へと 夜が希望の朝へ 
変わることのない愛を いつまでも僕に 注がれるイエス様と共に」





        



















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