なにから話そうかな。
去年、学校のみんなとある大学の人たちといっしょにサッカーをしたんだけど、僕はその時キーパーでした。
ものすごく乾いたLAにしては珍しく、安っぽい映画のワンシーンみたいな土砂降りの雨が降っていて、同点で迎えた、延長戦。これも、シナリオにしてはちょっと安っぽいシチュエーションだけど、まあ、そんなだった。
そのときにバレーボールをしていた中学時代を思い出した。なんでかっていうと、キーパーって自分じゃ点を取れないから、味方を信じるしかないでしょ。バレーボールは一人が連続で触ることはできないから、
(細かく言えば、ブロックのすぐ後は大丈夫。)味方を信じるしかないわけだ。
人生もそんな状態と似てなくはないと思う。
もちろん、一人でできることはたくさんあるだろうし、一人でやらなければいけないこともある。
だけど、信じるってことはけっして弱いことではないと思う。
キーパーがフォワードを信じないで、自分で点を取りに行くことはできないし、(まあ、不可能ではないけど。)バレーボールでも、良いアタックを打つためには、誰かのトスに頼らなければいけない。
僕は信じるという行為は強いものだと思う。
そして信じるという行為自身にすでに力があると思う。
自分は「誰もいらない。誰もいなくても生きていける。」と思うこともあるけれど、
素直に信じる決断ができるとき、やっぱし強いな、と思う。
ん?試合の結果はどうなったかって?まあ、いいさ、それは。


だけれど、じゃあ問題なのは何を信じるかってことだよね。
なんでもかんでも信じればいい、っていうのではないのはきっとみんなすぐわかることだと思う。
誰かが僕に「いやー、君は実は女の子だと信じているよ。」といっても、それはなにも意味しないし、
本当のことではないよね。いわしの頭は信じても、神様にはならないしね。
あ、でも神っていう言葉の定義にそれはよるか。
いわゆるただ信じるだけの対象とか、人には理解できない、不可思議なものを神というのであれば、
ありえるかもしれないけれど、「神」って言葉がもし、
世界を造って全ての上にいる方をさしているのであれば、信じたからそれが神になったりはしないよね。
ちなみに、聖書で言っている神って言うのはそっちの神ね。
聖書の神は、ポケットの中に入ってたり、池に住んだりはしていない。
まあ、とにかく狼少年の話じゃないけど、信じるべきものってあるだろうし、
信憑性のあるものとないものがあると思う。
それと、それぞれがそれぞれ好きなものを信じればいい、
というのもあるけど、事実に関してはそうはいかないと思う。
もちろん、にんじんが好きとか、ピーマンが嫌いとか、
鮭のホイル焼きのレモンが好きとか、(ちなみに、僕の小学生時代の好物。)
好みはいろいろあっていいと思う。
だけど、さっきちょっと言ったように、事実にたいしてはそうじゃない。
自分が癌にかかっているとして、それを聞きたくないとする。認めたくないとする。
初め、医者に行ったとき、「あなたは癌です。」と告げられて、その結果が嫌だから、
いくつかの病院に行って、そのいくつめかの病院で、「じゃああなたは癌じゃないです。」
って言われてもしょうがないでしょ。「よし、じゃあそれを信じよう」って言ってもね。
人が何を信じようが、認めまいがもし仮に事実として、存在するなら、それは否定はできない。
まして、それが命にかかわるものだったらなおさらだよね。
良くするために、なおすために事実を受け入れなきゃいけないでしょ。
そして何でもかんでも信じれば良い、というわけでもない。


さて、そろそろ飽きてきた?パソコンで読むと目が疲れるしね。
まあ、暇があったら次のページへどうぞ。

(やっとできました!)

























広告 [PR] 再就職支援 スキルアップ アルバイト 無料レンタルサーバー