あれ、けっきょくクリスチャンってなんだ?(笑)
関係ないけど、この壁紙きれいだね。読みにくくないといいけど。


そういえば、昔友達とソフトドリンク飲み放題のところに行って、いくつかコーラを用意して、
それに一つだけタバスコを入れて、それをランダムで取るっていうゲームをよくしたなー。
そんなゲーム他の人もやってるのかなー。
いやー、タバスコって辛いんだよ。(まあ知ってるか。)
ちょっと入っているだけなのに、99%はコーラなはずなのに、
もうそれはコーラじゃなくなってるんだよね。
ダイヤモンドとかがたくさん入った袋の中にものすごく形の似たガラスが入ってもそれは同じ。

まあ、取り分けられるものと、取り分けられないものがあると思う。
取り分けられるものとしては、そうだね、例えばそうめんの中に入っている1本のピンク。
これは、がんばれば取れるね。あとは、味噌汁の中に入った10円玉とか。
(決して経験からじゃないけど・・・。)取り分けられないものとしては、
まあ、さっきのタバスコが入ったコーラ、それと白の絵の具に混じってしまった黒とか、
人の心に混じった罪とか。(ここでやっとクリスチャンってなんだ、ってところに来たね。)
聖書でははっきりと、「義人はいない。」「全ての人が罪を犯したので、」って書いてある。
聖書で言う罪は犯罪とか目に見える形のものだけを指すんじゃなくて、
例えば人を妬んだり、憎んだり、蔑んだりしたりする心の汚い部分をも罪と言う。
人間だから無理だよ、なくならないよ、って言ってももしそれがちょっとでもあるのなら
その心は罪の状態なんだよ。
なぜなら、もし神様がいるとしたら、その基準は僕たちにあるんじゃなくて、神様にあるわけだからね。
髪の毛黒い人同士がいくら「どっちが髪が黒いか」って話し合ったって、
髪が金髪の人から見たら、どっちも黒でしょ。(これ知り合いのネタだけど・・・。)
それと同じ。人と比べてとかじゃなくて、神様から見たら僕たちの心は汚れている。


キリスト教の話なんていらないよ、という前にもう少しだけ読んでみて。

この前子どもたちがどろんこ遊びをしている時に、お母さんが来て、
「夕食の時間だから手を洗いなさい。」と言っていた。
でも、どうだろう?子どもたちは自分たちだけで手をきれいにできるだろうか?
もちろん、水か石鹸が必要だよね。
どんなけがんばったって、手が泥まみれだったら、自分では自分の手は洗えないと思う。
クリスチャンがよく何も説明せずに「イエス様は僕の罪のために十字架にかかってくださった。」
っていうけれど、それはそういうことなんだ。
罪って言うのは自分じゃどうしようもできないから、僕たちをきれいにできるものが必要なんだよ。
それが、クリスチャンが言う「十字架」っていうやつね。


じゃあ十字架と罪をきれいにするっていうのはどういう関係があるのか、
結局イエスって何なんだっていうのは、次のページで。



(おまたせ!!)





















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